
プレス発表(8月8日開催)より
この模様はIWJで配信されています。
○趣旨説明:初見 基(文理学部)
「安保関連法案廃案を求める日本大学教員の会」は会を称していますが,今回の声明のために急遽立ち上げられ,とりあえずは「法案の廃案」のみを共通項としたものであって,規約もなければ代表者もとくに設けていません。そこで事務作業を主として担当している初見から,今回の声明について簡単に説明を行います。
この動きそのものがはじまったのはかなり遅まきながらで,7月15日衆院で強行採決がなされた後になります。このまま黙っていて良いのだろうか,という思いを抱き,個人的には国会前の抗議行動に参加される教員も少なくなかったようですが,なかなか自分の職場で具体的になにかをする,というところまで踏み出せないでいたというのが正直なところかと思います。それがこうして「声明」を出すにいたるには,「安全保障関連法案に反対する学者の会」と並んで各大学から声があがりはじめたこともありますが,広い範囲で市民たちが反対の意思表示をしている,とりわけ「自由と民主主義のための学生緊急行動(SEALDs)」に代表されるような,これまで政治的に無関心と思われていた若い世代が危機意識をもって行動を起こしていることに背中を押された,という面がおおきかったのではないかと考えます。多くの人数とは言えませんが,これに参加する日本大学の学生も出ています。
私たちの「声明」は他の大学等から出されているものと比べるなら温和な内容であり,たとえば「戦争法案」といった刺激的な表現は用いず,憲法第9条の擁護すら謳っていません。生ぬるいのではないか,という批判は呼びかけ人のなかからも出ていました。これは当初の議論のなかで,日本の集団的自衛権の行使そのものを将来的にどう考えるべきかは自明ではない,といった意見もあり,より幅広いかたちで賛同していただける内容を目指したからです。事実,「改憲派」を自認される方からのご賛同もいただいています。
声明内容を簡単に説明するなら,ひとつは,安保関連法の適用基準がきわめて曖昧であり,国会での議論は不十分で国民を納得させるだけの論理を示していない,という一般市民の立場からになります。もちろんその延長上で,研究分野によっては,自らの学問的見地から法案の不適切性をより専門的に批判されている方もおりますが,敢えて立憲制というような言葉を用いずとも,基本的にはごく普通の感覚からしておかしいよ,という内容になります。
もうひとつは,大学教員としての立場からになります。20歳前後の学生と日常接しておりまして,近年は経済的理由で退学する学生,あるいは卒業間近になっても,さらには卒業後も就職がうまくできずに悩む学生を見ていますと,いわゆる「経済徴兵」に現実味を感じてしまう,というようなことがあります。事実大学内での自衛隊のこれまでにない募集活動が昨年文理学部教授会では問題視されています。SEALDsの方々がいまやジャーナリズムにもてはやされていますが,これは流行現象などではけっしてなく,若い世代の強い危機意識が吹き出しているという実感をもっています。
本日このように記者会見を開催するにあたっては,日本大学という学生数7万人以上を数える日本で随一の大規模大学という象徴的な意味も念頭にありました。たとえば東京大学でも全学的な取り組みが早々になされていますが,いわゆる「エリート大学」のそれと,大衆的大学のそれと,自ずと意味は異なってくると考えます。学生自治会も存在せず教職員組合の組織率は5パーセントに満たない,という,政治意識が表に現れにくい本大学で,全14学部のうち10学部から呼びかけ人が出せたことはきわめて稀有な出来事になります。声明に対する賛同というかたちで多くの方の意思表明の場となりうるならば,と考えた次第です。
さらに一点述べるなら,この間の国会などの議論の中で,安保法案を合憲とするごく少数の憲法学者のうちの複数が日本大学教員であると報道されています。大学教員の意見は多様であり全員が同じである必要がないのは断るまでもありませんが,日本大学教員は決して政府に仕える「御用学者」であることを誇る者ばかりではない,むしろそうした教員は日大においても極少数派であることを目に見えるようする,そうした意味も込められています。
以上簡単ながら,今回の声明に対する背景等の説明になります。
○臨席の呼びかけ人より(当日の発言は氏名の50音順,ただし司会の小浜は末尾になった)
・坂野 徹(経済学部)
今回の安保関連法案や強行採決の問題性については他の方にゆずるとして、ここでは経済学部で教鞭をとっているひとりの歴史研究者として、現在の社会状況について思うところを二点だけ述べます。
既に多くの現代史家が指摘していることですが、現在の日本社会は、アジア太平洋戦争開始直前の1930年代初めと非常に似てきたという感触をもっています。もとより、現代の戦争はかつてのような総力戦とは異なる、今回の法案を戦争法案と呼ぶのは単なるレッテル貼りだ、などといった異論もあるでしょう。
しかし、1930年代初めの日本社会に生きていた人々のうち何人が、わずか数年で日本が破局的な戦争へと突入していくことを予想しえたでしょうか。歴史は我々に、社会がわずか数年で急速に変化しうるということを教えてくれます。今どき日本が戦争するなどありえない、というのが多くの方の実感でしょうが、社会の雰囲気は変わるときは本当に一気に変わります。「貧すれば鈍する」とはよく言ったもので、日本社会には、他者に対する非寛容な精神が蔓延するとともに、右肩下がりの日本とは対象的に、急速に発展する隣国に対する反感が広がっていますが、例えばの話、尖閣諸島で偶発的な衝突でも起これば、日本社会には「戦争やむなし」という気分が急速に広がっていくことでしょう。その意味でも、隣国を仮想敵国と明言する安倍首相の国会答弁は非常に危険なものです。
もう一点、経済学部で教えていて、最近の学生は社会から求められる人材になることに必死で(もちろん、先行き不透明な日本社会にあって、そうせざるをえないという事情があるのは承知しています)、自分たちが社会をつくっていく主体だという自覚に乏しいと感じます。その意味で、SEALDsの学生たちには頼もしさを感じるのですが、正直言えば、今回の闘い、さらに日本社会の行く末はけっして楽観できるものではないでしょう。
でも、自分たちがこれから生きる社会をどのようなものにするのか、今回の出来事を契機に改めて考えていかねばなりません。隣国や世界情勢の迫りくる危機という言葉が氾濫するなかで(私自身は、危機の言説は半ばねつ造されたものだと考えています)、とりわけ学生諸君には、ただ社会から求められる人材(兵士?)になることをよしとするのか、それとも自分たちが主体となる社会をつくり、隣国と平和に生きていく道を選ぶのか、自らの頭で考えてほしいのです。
最後に、私が好きな「私たちの望むものは」(岡林信康)の歌詞の一節を引用して、結びとします。
私たちの望むものは社会のための私ではなく/私たちの望むものは私たちのための社会なのだ
私たちの望むものはあなたを殺すことではなく/私たちの望むものはあなたと生きることなのだ
(注:ここでいう「私たち」は、「日本人」「日本国民」ではなく、「日本社会に生きる人間」という意味で使っています)
・丹治 信春(文理学部)
参院選の惨敗の後、2007年9月に、体調不良で辞任した安倍首相が、数年後に再び首相として登場してきたときには、本当に驚きました。「どうしてもやりたいことがある」、あるいはむしろ、「自分がやらなければならないことがある」という、使命感が滲み出ているように思いました。それは、「憲法改正」以外にはありえないでしょう。しかし、一挙に憲法改正というわけにはいきません。そこで怖いのは、「少し変える」が繰り返されることです。「<少し変える>くらいはいいか」と甘く見ていると、これを何度も繰り返せば、どこまででも変えることができるのです。それに注意していないといけない、と思っていたら、「少し変える」どころか、「非常に大きく変える」案、ほとんどすべての憲法学者が「それは憲法違反だろう」と言うような法案を出してきたので、また驚きました。もちろん、「少し変える」より、「非常に大きく変える」の方が危険です。70年間保持してきた「戦争放棄」の理念が、危うくなりかけています。そんな思いで、「呼びかけ人」に参加いたしました。
・安原 伸一朗(商学部)
今回の安保関連法案をめぐっては、さまざまな点で場当たり的に事が進められていることに大きな危機感を抱いています。まず、従来の憲法解釈を政権がたやすく変更してしまったこと。そして、法案の中身についても、適用基準に大きな曖昧さが残っており、歯止めがなくなってしまう可能性が高いことです。
ところで、国や国民とはそもそも一つの制度にすぎませんが、それは他方で、人びとが築き上げてきたものにほかなりません。そして民主主義においては、国という仕組みが人びとのために存在しているのであって、その逆ではない。だからこそ、国に対しては憲法を設ける必要があり、それを尊重してもらわねばなりません。
今回の一連の法案は「国民の生命、自由及び幸福追求の権利」を守るものとされていますが、過去を見ても明らかなように、万が一、危機的事態が出来したならば、守られるはずの国民が、きわめて不幸にも「良い国民/悪い国民ないし国民ならざる者」に分けられることは必至でしょう。
それゆえ、国民の生命にかかわるものでありながら、むしろ自ら危機的事態を招きかねないばかりか、憲法違反の疑いが濃く、さらには政権の恣意性を許容する法案を廃案にすることを求めます。
・小浜 正子(文理学部)
安保関連法案は、第一に、集団的自衛権を容認して他国の戦争に日本が参加することを可能にし、戦後70年間堅持してきた非戦の国是を変更するものであること、第二に、絶対多数の憲法学者から憲法違反が指摘されており、このような法案が通ることは立憲主義を否定するものであることから、廃案にすべきと考えます。
加えて、中国研究者の立場からは、今回の法案は「国際環境の激変に伴って」必要となったとされており、そこでは中国が仮想敵国と目されていることが気にかかります。
中国の絶対多数の民衆は、日本と戦うことを望んでいません。70年前に日本軍に大陸の奥深くまで攻め込まれ、日中戦争に勝利はしたものの、多くの人命をふくむ膨大な被害を出した中国の人々は、日本とまた戦争するなんぞ金輪際ごめんだ、というのが率直な感情でしょう。
日本は中国と、1972年の国交回復以来、侵略戦争への真摯な反省を基盤に、平和的に交流を深め、人の往来や経済関係を拡大して信頼を醸成して、現在では双方にとってなくてはならない相互依存の関係を構築してきました。しかしこの数年間、尖閣問題を契機として双方の政府がボタンの掛け違いを繰り返し、両国間には緊張の度が増してきました。
今回の安保関連法案を廃案として、今一度、日中両国が不再戦を基盤とした信頼関係のもとで交流を拡大する基調に戻ることが、もはや双方が深い相互依存のもとでしか生きられなくなっている東アジア地域がすえながい平和と繁栄を維持するために不可欠であり、それは日中間に限らず、あらゆる国との関係の基本となるものだと考えます。
○臨席の賛同者より
・及川 淳子(文理学部・非常勤講師)
母校であり、非常勤講師として勤務する日大で、安保法制反対の活動が始まったことを、とても誇らしく思い、先頭に立って下さっている呼びかけ人の皆様に、心から感謝いたします。 私は身内に戦死者と長崎の被爆者がいますので、平和の尊さを子どもの頃から痛感しています。「戦争法案」とも言うべき一連の法案に、絶対反対です!憲法と民主主義を尊重しない安倍政権による権力の暴挙に、強く抗議します! 私は中国の民主化問題について勉強しています。今年度前期の授業で、香港の学生が普通選挙権を求めて立ち上がった「雨傘運動」を取り上げ、学生の政治意識、政治参加の問題についてディスカッションを行いました。その折、クラスの中で「日本の学生の政治意識も変化している。私は安保法制に反対で、シールズの活動に参加している。みんなももっと考えよう!」と勇気を出して発言してくれた学生がいて、とても心打たれました。 先日、国会前で頑張っているシールズの抗議活動に私も参加しました。その日は、日大芸術学部の学生がとても感動的なスピーチをしていました。 抗議活動の最後に、「民主主義ってなんだ?」「なんだ?」というコールが、「民主主義ってなんだ?」「これだ!」というかけ声に変わりました。 このひと言が象徴しているように、民主主義とは、市民が声を挙げ、行動し、政治に参加することです。学生たちの勇気ある行動を心強く思うと同時に、私たち一人ひとりが、自分自身の問題として、声を挙げ、行動することが大切だと考えます。 いま、日本の民主主義は危機的状況にあります。日本の市民社会の成熟度が問われていると思います。市民が声を挙げ、行動すること。私たちには、歴史に対して、そして未来に対して、責任を果たさなければなりません。
○学生からのメッセージ(当日は代読)
・文理学部3年生
私は友人に誘われて、SEALDsに参加するようになりました。そこで同じような考えを持つ同年代の人たちがいると知り、ひとりではないんだと勇気づけられました。そして改めて、決して屈することなく、声を上げ続けようと決意しました。
私は戦争をしたくはありません。他国の人を傷つける行為に加担することもしたくはありません。しかし日本は今、誤った方向へ進もうとしています。極めて危機的な状況にあるのです。必ず止めなければなりません。だからこそ、より多くの人に今の日本の現状について、改めてよく考えて欲しいと思うのです。取り返しのつかないことになる前に。よく考えてください。そうして少しでも間違っていると思ったなら、臆することなく、声を上げ、立ち上がりましょう。